先月からブログを始めたのだが、こうやって書き留めていくと、自分ってこうなんだと客観的に見えてきて、すごい恥ずかしい。なんかもっと、キラキラしていたいのにそうならないし笑、書いている文章や考えていることもものすごく偏っているし、まともに生活している記事がほとんどないし。私の頭の思考形態はいったいどうなっているのだろうかと思う。ずっと覚醒の事ばかり考えていて、娯楽やファッションのこと、友達の事、おいしい料理の事、そういったことが全然出てこないことに自分で衝撃を受けている。喜んだり嬉しかったり感動しないわけではないよ。感動や深い愛を感じているのが、4次元以上だからずれているのかもしれない。まあ、いいってことにしておく。
美しいもの、きれいなもの、光、色彩、音。そういった華やかな光と調和の世界観が嫌いなわけではなく、そういう世界で仲間たちとワイワイ楽しくやってるイメージが必ず出てくる。一人ではなくて、いつも友人がいて、一緒になんかやっている。現実では一人でも、意識内では大勢と繋がっている。見えない存在たちと繋がっていると寂しいと思わないよ。そこで何やっているかというと、感謝と敬意をもって他者と接していて、優しくしたり、心に寄り添ったりできることが嬉しくて。恩返しとか、サポートとか。そういうことが日常的に起きていたりする。意識内で。そこにお金という対価交換もないし、情熱をもって直接的にサポートできるのが喜びだったりする。
学生の頃、教室の中に決まった生徒がいたように、見えない存在もそんな感じ。そこにいるんだもん。それがいいとか悪いとかではなくて、そこに存在している。ルームシェアで共に時間を共有している感覚に似ている。例えばそこで花火があって、一緒に感動する。そんな感じかな。きれいだねー、とか、楽しかったね!と、一緒にいるのが当たり前のような感覚。だからってどうもしないんだけど。不思議。
たまに自分は既に死んでいるのではないかと思うときがある。いや、全然笑えないんだけど。物質次元に肉体があるのに臨場感を別次元で感じていると、リアルって何だろうって思うよ。あ、勘違いしないでいただきたいのは、別に過酷な環境に身を置いて逃避しておかしくなった、とかではないからね。平和に日々暮らしていますよ。ちゃんと美味しいもの食べて、肉体をほぐしたりリラックスして、この世を満喫しながらですよ。肉体をもってアセンションする時代だとよく聞くけれど、それはこういう感覚なのだろうか。私の感覚では、たとえ肉体を脱いでも魂は何も変わらずそのまま。特に聖人になるわけでもなく。わたしはわたしのまま。だから、肉体がある間にこういった経験ができるのはとても貴重なことだと感じています。
ありのままの自分を受け入れる。恐れることなく、寄り添って、共にいる。決して放置しない。どんな自分もOK出してあげたら、内側のジャッジメントや不要な争いが静まり、穏やかでいられるようになるよ。心が落ち着かないときは、是非そうしてあげてください。