思い切って、YouTubeで昔の自分がいた場所を眺めてみた。デジタル技術者の対談。私が今世逃げ出した世界観の一つ。この世界から離脱しはじめたのは10年前で、徐々に距離を置き、完全に距離を置いて6年になる。この世界では、どこか自分の魂が大切にするものが極端に欠けていて、まるでホログラムを見ているように自分の実在が消滅する感覚になった。肉体を持った自分という実在から離れていくので、超不自然なことをしている感覚になる。それでも適正があって、仕事はできていた。進化、発展、繁栄という美しい言葉で飾られているものの、やっていることはイリュージョンの醸成で、非人間的で。当時はそのような解釈だったため、心が折れた。
公共に奉仕するという形で自己が解放され消滅する、という方向性も同じく、自我を超える行為だと思うが、私はそこまで行けなかった。まだまだ自分という個の認識で我が取り切れず、終いには逃げ出してしまった。それが、10年前。
そうなって初めて、今世でまだ解消できていない事柄がある事に気づき、それがカルマだったり、愛着問題だったり、心の問題と向き合う必要があった。本当に自己を立ち上げ生きようとしてそれを外したとき、これまでいかに他者のエネルギーやイデオロギーで生きてきたのかを痛感させられた。そこに自分はいなかった。それに気づいて、ひたすら手放し続け今に至る。
我が取り切れないのではなく、正確には、我がない、が正しかった。目覚めのために手放すのではなく、あなた自身の我を確立させて初めて、互いの不干渉の中で全体に奉仕できる。そのことに気づかせてくれたのが、そのカオスな職場環境だった。
当時は苦しくて仕方がなかったけれど、今思うとすべての成長を促してくれた経験だった。そこには、情熱的に取り組んだストイックな自分の断片があった。情熱を思い出すのと同時に、必然的に当時のありのままの自分の感覚が引っ張り出された。一時は病によって、それまでのいろいろな自分の側面を全否定した。その衝撃があまりにひどすぎて、再起不能なまでにバーンアウトし、社会から放り出された。そんな体験から、思い出すだけでもあの頃の周波数に戻ってしまいそうで、怖くて記憶を掘り起こすことができなかった。かなり時間がかかったものの、心が癒えて復活し、本質的な光を手にすることができて本当に良かったと思う。
さあ、改めてすべてをリセットしたうえで、世間の流れをフラットに見つめてみる。一見、スピードが早すぎて人間側が全くついていけていないように思うが、各自の解釈の下で腑に落ちるところに存在していいので、何の問題もない。やりたいと思ったときは、やれるよ、という可能性を秘めているだけで。最速でついていける人間は、完璧に目覚めている人間だろうけれど、皆がそうでなくてもいい。自分の心に寄り添えた上で、愛をもってやりたいことをやればいいだけ。だから、焦る必要はない。
さあ、私はどうしたいかな。確実に言えることは、慈しむ心をもって、愛や美、善を大切にしたいということ。何かその役割を生きたいということ。今までの全てを統合して。常に矛盾の中に生き、ジャッジできず、アイデンティティも定まらないのに、今こうして存在している不思議さ。それでも、ポジティブの中で希望や可能性をもって生きていたいと願う。
根拠のない自信がとても大事で、それが内側に常にある事。これが本当になりたい状態だった。人類の進化に携わるという仕事も大事だけれど、まずは自分に優しくあり、愛せて、安らぎの中でいさせてあげること。これが本当に求めていた在り方だった。これを前提に進化する未来なら、明るい希望が持てるが、それによって脱落者を生み出すのなら、それはただの私の傲慢さであり、エゴがもたらすものでしかない。自分に優しくできて初めて、他者に安らぎを与えられる。そんな居場所を創るにはどうしたらいいだろう。
人間的で、いいじゃない。弱くたっていい。全部できなくていい。ユーモアがあって面白くていい。それでいいんだよ。完璧を目指したり、振り落とされないように心を鬼にして無理をしたりは、もういらない。それぞれの異なる才能を活かしあって、一つの全体を繋がて行く。それが一番、理想の繋がり方かな。それに必要なのは、進化ではなく、安心の中での才能開花。
なぜかわからないが、本当に魂が求めることなら、それ以上のことを平気で楽しみながら、もっともっと軽やかに、ラクに、シンプルでいて、人類的に退化の道をたどるのではなく飛躍の道を進んでいける、ということを知っている。攻撃的ではなく、自己犠牲でもなく、楽観的で、他者に賞賛され、誰の評価がなくとも持続できる感覚が走る。その世界観を創造するために、私は何をしたらよいだろうか。
物理的に生き辛いと感じる人たちが移行する先として考えられるのは、VRの世界、精神世界。この二つは並行的に走っている。統合するようにパラレルで進んでいくが、違いはプラットフォームである。VRの眼鏡か、第三の目か。その違いは天と地ほどの差があり、それらが交差することはない。だが、その二つは並行して走る。人はこの二つを行き来することができる。前者は後者の具現化した現われであり、どちらも量子的な世界の中で進行していく。自分が選んだ周波数でビジョンを見ることができ、いつでもやめることができる。
そう、いつでもやめられるんだ。多分それに気づける時が来る。私たちは常に物語を脳が創って、その中で生きている。それに気づくことができれば、その両者は実は必要がないことにも気づける。実在の中で生き、あなたというスピリットの願いを叶えることに集中し没頭し始めたとき、生き方が変わる。喜びを味わえる。実存を楽しめる。幸せを感じられる。没頭していると、周りが見えなくなるからね。それくらいになれば最高だ。
私は今、思考内部の上書きに没頭している。自分の中にあるすべての暗闇に光を当て続けていると、その通りに世の中が変化してきているのが面白すぎて。リーダー不在の世の中を好んでいたらそうなってきているし、それが嫌な人たちは日本から出ていっている。もちろん、それが必要な時は自然に顕れてくるけれど、別にそのリーダーが偉いわけでもなんでもない。リーダーというものは、それに従う人たちがいて初めて成立するものだからね。リーダーは大衆に支配されている。それに気づいたのは中学生の頃だったかな。現実の社会でそうなっているのを見てみたいなぁ。それができるのは、大衆が優秀だからだよ。
日本という国家のグランドデザインが存在しないままに、今後国として成立するのだろうかという、興味深いネタで討論していた動画を見た。芋虫たちを転がすにはどうすればよいか。団体になるとキャタピラのように速度は上がるが、それがどこに転がっていっているのかわかっていないよね、という話をしていて噴き出した。例えが秀逸すぎて。
日本を動かしたかったら、日本人として輝く自分を差し出して、見せること。これに大衆を同調させ、自分もそうなんだと錯覚させる。バブル期のコーラのCMのように、みんな輝いている世の中なんだと思えば、やる気も溢れ、自分もその一部なんだと思い、少なくともポジティブ思考で行動に移すようになる。そんな3次元だったら僕も参加したいなぁ!と。だから今、バブル時代の勢いが必要なんじゃないか。根拠のない、バブル笑。しかもそれを、リーダーではなく大衆がやる。自分たちと同等なんだと思う必要があるから。でも、一部のコミュニティではだめなんだよなぁ。公共の一部でなければ。
SDGsに関して。日本ははっきり言って、SDGsになんか頼らずとも実現していた。誰かに評価されないと価値がないと思う癖を、もうそろそろやめなければならないよ。そんなものに頼らずとも我々の伝統文化があればいらないのだ!とはっきり言えばいいのに。みんなSDGsに合わせっていってる。なんかおかしい。またそこに外部の権力が浸潤してきて、結局もともと伝統文化だったのにSDGsのおかげで、という流れができてしまうよ。お金もらえるからとか、PRしやすいからとか、そういうのに流されないでほしい。せっかく自立できるすべての要素を持っているのに、外部機関に明け渡す意味が分からない。これも、自己評価の低い国民性の現われ。一つずつ解決していくしかない。
ああ、なんだかんだ書くことがどんどん増えていく…。