島唄

あれから気になって、島唄の由来を調べてみた。

”「島唄(しまうた)」は
本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは
沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。

そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、
本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で
大勢の住民が犠牲になったことを知った。

捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。
極限状況の話を聞くうちにぼくは
そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟<どうくつ>)
の中にいるような造りになっている。

このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると
ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。
この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。

歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。

「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」

という下りだ。

「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが
この部分は本土で使われている音階に戻した。
2人は本土の犠牲になったのだから。”

https://kwsklife.com/shimane-meaning/

最後の部分に、少し怨念のようなものを感じた。

歌詞)
でいごの花が咲き
風を呼び 嵐が来た

でいごが咲き乱れ
風を呼び 嵐が来た
繰りかへす哀しみは 島わたる 波のよう

ウージぬ森で あなたと出会い
ウージぬ下で 千代にさよなら

島唄よ 風にのり
鳥と共に 海を渡れ

島唄よ 風にのり
届けておくれ わたしぬ涙

でいごの花も散り
さざ波がゆれるだけ
ささやかな幸せは うたかたぬ波の花

ウージぬ森で うたった友よ
ウージぬ下で 八千代ぬ別れ

島唄よ 風に乗り
鳥とともに 海を渡れ
(*繰り返し)

島唄よ 風に乗り
届けておくれ 私の愛を

海よ
宇宙よ
神よ
いのちよ
このまま永遠に夕凪を

意味)
災厄を告げるというでいごの花が咲き、(1945.4.1)沖縄本島に米軍が上陸した

でいごが咲き乱れる1945.4-6月に、寄せ引く波の様に、殺戮は繰り返された

サトウキビ畑であなたと出会い
(ガマ)鍾乳穴の防空壕で
君が代にいう永久の御代との別れ

島唄よ 風にのり
しびとの魂と共に 海を渡れ

島唄よ 風にのり
本土に伝えておくれ、沖縄の悲哀を

でいごの花も散る1945.6.23に
戦闘も終わり、宝より大切な命が散り、生き残っている者もあまりいない
日常生活は、簡単に消え去った

さとうきび畑で謡いあったあの人は防空壕の中で、戦闘によって死んだ

沖縄民謡よ、風に乗って
魂と共に、海を越えて
(あの人の居るニライ・カナイ=天国へ)

島唄よ 風に乗り
(ニライカナイへ)届けておくれ 私の愛を

海よ
宇宙よ
神よ(豊穣をもたらす)
いのちよ(何物にも代え難い命という宝よ)
このまま永遠に夕凪(平和)を(祈る)

やまとーんちゅが創り、喜納庄吉がそれを許可し、大切な何かに繋げる流れを作った。風に乗って海を越え、私はそれを中学生の頃に聞き、魂で受け取ったんだね。当時から、苦しんでいる人を理解したいという想いが強かった。

意識を向ける先は、弥栄。明るい方向。決して、闇落ちによる追体験によってカルマが解消され光に還るわけではない。むしろ、逆。この歳になって、それにようやく気がついた。過去の私はもがきまくっていたわー。長かった。。

人生かけてようやく統合された。これが私の悲願だったんだ。今まで生きていく中で、何度もそのサインは来ていた。加害者被害者の枠を超えて、もうしっかりと光に還していっていいんだね。

統合されてわかったのは、軽やかになった今、当の魂の視座で見ると、晴れやかにのびやかに羽を伸ばす感覚だということ。これがとても大切。そこに負のループはない。

カルマという考え方に囚われていた。宇宙のことわりではなく、生きている側が勝手に投影しているだけだったということを、改めて認識した。土臭い時代が終わり、すでに時代は転換期を迎えている。そういった見えない世界の感覚も新調していく必要がある。

でいごの花のおかげで気づくきっかけになった。この曲は、私にとっての課題曲であり、統合すべきテーマだったんだね。

本当の鎮魂とは何か、沖縄のおばあたちは絶対知ってるだろうなぁ。苦しみを分かち合うよりも、笑顔で楽しく!が平安を保つのに何より大切なことなのだと。そういう意味で、この曲は、やまとーんちゅだから世に出すことを許された曲、なのかもしれない。

国内で敵味方に分かれ、互いに牽制し合い闇堕ちさせている日本って、何なんだろう。長い歴史の過去起きたことを掘り出しては償わせる国、日本。怨念、恨みつらみの解消は、決して復讐の達成ではないのに。そんな国で、刀を床に置き、生贄として捧げても何の意味はないのに。罪悪感ばかりを背負い込んで生きても、奈落に落ちるだけなんだよ。誰も救えない。国内だけでなく、海外も同じ。

時系列を外して、今この瞬間に喜びを分かち合えますように。

本当の祈りとは、悲惨さを防ぐことではなく、安寧を味わうこと。

意識を向ける方向は、いつも明るい方へ。

それが本当の強さであるということを、私はむしろ、ウチナーンチュに教えてもらったよ。

戦いは終わり、一つのストーリーが幕を閉じようとしている。

全ての存在に、感謝を。

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