惑星崩壊がフィクションだったこと。最初からそういってんじゃん!て。宇宙は何も、嘘をついていないよ。すべては完璧なのだぁ。猛毒が光へのポータルへ変わった。この事象が起きる数時間前に、Twitterでこのような投稿を見ていた。
「芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。」
(ミヒャエル・エンデBOTより)
幼少期にフィクションとノンフィクションの混同が起きてしまうと、そのあとの人生が猛毒に侵された人生になるの?それを選んで生まれている、という安い言葉の羅列で片付けてはいけないのではないかと思うが、リアルですらフィクション、芝居なのだから、それは避けられないものだ。生まれてきた子供は、その環境を選んで生まれてくる。体験のすべてが財産であり、賞賛されるべきものであるから、何一つ無駄なものはなく、否定するものではない。
否定してしまうと、その子は否定として受け取ってしまう。そうではなく。私にとっての猛毒はアニメではなく、両親のリアルの方だったと言える。そう。魂が反応するそちらの方が自然な影響だ。たまたまアニメも合わさって、アニメも否定に呑まれた可能性だってある。幼少期の解釈なんか、どこでどう紐づけるかなんてわからない。すべてを一色多にしてその世界観で捉えるので、もしかしたらこのアニメを見ながら両親が苦しんでいたのかもしれない。
この一色多の世界観の中で捉える魂の反応こそが、オーダーメイドでなされるもの、そのものだ。人の数だけ経験が異なるだろう。事象は中立で、人が周波数をくっつけているということがよくわかる。
久高島に住んでいる人が言っていたのを思い出した。
「人にもまれたほうがいいから、本島や日本本州に移住するんだよ」って。その人は、その重要さを知っていたんだね。そこから何を拾うかは、その子が持ち越してきたものであって。皆違うんだ。その自由が大切なんだね。