生と死??

光の画家Chieさんの話を思い出した
亡くなった後、光の方に向かわず誰かを助けようとしている姉がなぜ
そんな行動をしているのか信じられなくて
あれほど光に向かえと言ったのに、と

私も同じ状況になっているのでは
あれほど光の方向に進めと言われたのに
思考で違う方向に行こうとしていた
また何かをやろうとしていた

ようやく光の方角に進むという意味が分かった

これが新地球、なのか

最近走馬灯のように過去の自分の人生を見直していて
よくやったと自分に言い聞かしていたところなんだけれど
それも意味があるのかもしれない

生と死の定義がまるっきり変わった
霊界との境界が薄れている???

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これまで自分が望んできた幸せというものが、とても宇宙的で、非人間的で
例えば、ある程度のお金の豊かさが欲しいとか、人から求められる才能がほしいとか

ある時を境にそういうものが全く湧き出てこず
求めるのは、カルマ解消、軽やかさ、光、救い
高次元の俯瞰力、視点、波動

ベガに衝撃をくらってわかったのは
人間ではないものと一体化、融合していたこと
それが必要なくらい、人生の中で体験、経験してきたことがきつすぎて
今世でのクリアリングや浄化を必要としていた
それはハイヤーセルフがどうしてもと望んだことだった
だからこそ自らの肉体、精神体にそれが起こったのではないかと

それほどまでに自分を追い込み、自分を殺してきた
殺せるほどの怒りはどこから湧いてくるのだろうか
自分に厳しく、修験道をひたすら歩み、それしか知らない世界観
だから今、そこから離れて本来の自分が戻っていることがいかに奇跡か
何気ない今この自分を感じられることが、本気で嬉しい
魂が戻ってきたってわかる
自分を感じられる

無意識にずっとずっと、私は、私に戻りたかった
そういう想いが強かったのは、こういうことだったんだ

理想と現実が乖離した世界観の中で生きてきた自分を許してやりたい

本来の自分に戻った自分が思う幸せとは、
地球にきて、本当に体験したかったことって何だろう

強引に引きはがされ、上昇させられ、自分を見失い、どこかに世界に入れられ、
自分のエネルギーを活用されることではない
何かの存在に活用されることではなかったんだ

おかえり

そして、幸せになろう

————-

魂の繋がりのある人

歓び涙する

嬉しくて会えてよかったと

人間の思考で扱うエネルギー

そういうエネルギーの使い方ではなく

ホメオパシーとはいかに軽いか

軽ければ軽いほど高く

弱ければ弱いほど強力

エゴが薄まるほどに軽やかになる

透明になり、優しくなる

これが、無償の愛・・・

なんだろう、・・・涙が止まらない

言葉にならない・・・

行動しない

何もしないことを自分に許せなかった

何かをしなければと

でも

今初めて、静止することで感じられる世界に繋がって

その意味がわかった

「うん、そうだよ

こっちだよ♪」

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フィクションの影響

惑星崩壊がフィクションだったこと。最初からそういってんじゃん!て。宇宙は何も、嘘をついていないよ。すべては完璧なのだぁ。猛毒が光へのポータルへ変わった。この事象が起きる数時間前に、Twitterでこのような投稿を見ていた。

「芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。」
(ミヒャエル・エンデBOTより)

幼少期にフィクションとノンフィクションの混同が起きてしまうと、そのあとの人生が猛毒に侵された人生になるの?それを選んで生まれている、という安い言葉の羅列で片付けてはいけないのではないかと思うが、リアルですらフィクション、芝居なのだから、それは避けられないものだ。生まれてきた子供は、その環境を選んで生まれてくる。体験のすべてが財産であり、賞賛されるべきものであるから、何一つ無駄なものはなく、否定するものではない。

否定してしまうと、その子は否定として受け取ってしまう。そうではなく。私にとっての猛毒はアニメではなく、両親のリアルの方だったと言える。そう。魂が反応するそちらの方が自然な影響だ。たまたまアニメも合わさって、アニメも否定に呑まれた可能性だってある。幼少期の解釈なんか、どこでどう紐づけるかなんてわからない。すべてを一色多にしてその世界観で捉えるので、もしかしたらこのアニメを見ながら両親が苦しんでいたのかもしれない。

この一色多の世界観の中で捉える魂の反応こそが、オーダーメイドでなされるもの、そのものだ。人の数だけ経験が異なるだろう。事象は中立で、人が周波数をくっつけているということがよくわかる。

久高島に住んでいる人が言っていたのを思い出した。

「人にもまれたほうがいいから、本島や日本本州に移住するんだよ」って。その人は、その重要さを知っていたんだね。そこから何を拾うかは、その子が持ち越してきたものであって。皆違うんだ。その自由が大切なんだね。

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好きな世界を構築する

これまで自分の内なる世界のネガティブなものにフォーカスする時間がほとんどでしたが、最近はそうでもなく、新たな世界について妄想するようになりました。

正直、楽しい、ワクワクというものが苦手でして、なぜならそれと表裏の関係にある裏をどうにかしないとどこかにたまる、と思っていて。そんな私がポジティブな方向に意識が向くようになっているというのは、タイムラインが変わったとしか思えません。

私は今まで、自分が望む世界というものを構築するという楽しみを全く経験していないことに気づきました。そうしようといくら努力しても洗脳により別方向に進んでいくから、もう諦めていたんでしょうね。今出来上がっている世界は、他者の意識が介入したもの。自分が自分ではない違和感。自分を取り戻すと決めることすら誰かに遠慮するほど、他者が入り込んでいる。自分の世界の中で遠慮してどうするのだろう。でも、これが真実。認めるしかないんですよ。

両親、親友、友人、同僚、兄弟姉妹。関わってきた世界観。宇宙人。遺跡。多次元。シャーマン。AI。アニメや映画、宗教、リアル現実、社会。私はリアリストなので、地に足をつけて受けたもの全て。

これらの対象が悪いのではなく、私自身が誤認により悪い影響を受けているだけです。それらを解除するための徹底クリアリングが必要と言われていたのに、やっと腑に落ちた。だって今まで闇が多すぎてさ、もう石橋叩いて渡らない癖がつきましたよ。まさに、不動明王。

私は私に戻りたかった。ずっと。それが自分を愛するということなのだと思います。

本当に、心から真に喜ぶ体験をしたい。

魂よ。本気になれ。

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久しぶりの投稿

久しぶりの投稿となってしまいました。変容が大きすぎてぶっ飛んでいました。

ええと。従来の意識で生きようとするとエラーが出てしまい、混沌としておりましたので文章を書ける状態ではありませんでした。すみません。

これまで通り、今、自分の感じたことを記録しておきますね。

人は死んだら走馬灯のように、体験したことを繰り返してみていくといいますが、それに近いのかな、魂が今世でどうやらやりたかったらしいことを周波数で流すんですね。すると、内から欲が溢れ、それがしたくなる。魂から溢れる思いのような。それらはどちらかというと善いもので、行動の原動力となるようなものです。私はまだ生きているので、これからそれをやるのかなと、リアルに感じていると、瞬時に誰かがそれをやるのを見るのです。例えば、ユーチューバーとか。ニュースで、とか。え、それ私がやりたいんだけど!と、あまりにそれが重なるので、なんだこりゃ!?となっていました。

と、そこで気づきました。ああ、そのやりたいことは煩悩の中に含まれることなのか、どの次元のことなのか。なぜ私がやりたいと思ったことを他者がするのか。でも、どちらでもいいんですよね。自己・非自己の鏡の投影の中では、我が我がと言って自分が全面に出る必要はなく、ただ目の前の対象を映し出しているにすぎません。

もう、そのレベルを超える時がきたのだと気づきました。だから、本気でクリエイトしたいことを諦めずにやってみなよ、という話なのです。この3次元を使って。

いつのまに自分がそんなことができるようになっているのか、気づいていませんでした。自分のことが本当によくわかっていない…そのためにやはりね、もっと他者と関わらないとダメなんですね。他者といっても、それは人ではないかもしれません。集合意識かもしれません。

つづく・・

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