目の前でぐるぐるしている!

地域の街の盆踊りが、こちらも4年ぶりに開催された!早速ぐるぐる踊ってるのを見に行った

四国はよさこい、阿波踊り、高松祭りと、道路を練り歩くのでぐるぐるしないから、日本の地域で踊りが違っていてとても新鮮だった

こうやって社や提灯を囲んで輪になってぐるぐるするのをボーッと見ていると、どこか古代から続く調和を醸成する感覚が自然に思い出される気がした、何かのスイッチがあるのか

ついこの間まで、お注射騒動があったなんて思えないほど、この国の民族はある意味強い

チョチョイのチョイ♬アソレ!と踊れば、いろんなものが吹き飛んでいく

日本人を目覚めさせるのは、祭りが手っ取り早いんじゃないかとつくづく思う

どんなに悲惨で残酷でも、踊って仕舞えばソレソレソレソレ♬と、どうにかなっていく

なるようにしかならない領域へと簡単シンプルに入っていく単純さ、まあ、嫌いでないけれど

理論やディベート、数字の無意味さよ笑

命のエネルギーの回し方を知っているというか、場の力を活用しているというか、そういうのが自然に遺伝子に組み込まれているのが面白いね

楽しむところは、楽しんじゃえ!

久々に夏祭りを堪能した気分を味わえて、ちょっとニマニマしたとある夏の夜でした

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自然の一部

先日、仲良しの野良ネコ先生がネズミを咥えて玄関先までもってきた
ひとしきりどや顔でご披露された後、玄関前に放置したまま、翌朝無残な姿となっていた
虫が大量に湧いているので、早急に大家に電話して撤去をしてもらった

数日後のある日、玉虫色の虫がひっくり返って死んでいたのを見た
それを何気にみていると、ああ、これが自然の形なんだな、と、
南無阿弥陀仏も、供養しなきゃもなく、ただそこに屍が転がっているだけで、
自然の一部と化している

ねずみさんも自然の一部として見れるはずだけれど、あまりにグロいのでまじまじとは見なかった

そういえば、虫の屍は虫がわかないんだな、とふと思った
なぜか、バターにはありんこが湧くが、マーガリンにはありんこが寄り付かないことを思い出した

バターもマーガリンも、地面に落としても供養なんてしないよね笑 当たり前だけど

ねずみはたぶん、他界して真っ先に光に上がっていったのだろうと思う
虫も同じく
バターもマーガリンも同じく笑 そもそも魂がないわい

人間だけが、他界してすぐに上がらず、うろうろしている??

何か未練があるのだろうか
意識が現世に繋がったまま、納得して離れられないんだと思う
心配か、執着か、何かしらの理由によって
それか、生きている側が掴んでいるか

それだけ、人の意識って繋がっているんだね
肉体を超えて

すべてを許し手放し、軽やかになることって、とても大切なことなんだと最近改めて思う
それは、生きている間にも大いに関わること
こういうことを考えると、何が重要で、何が不要かが見えてくる
一人一人がこれに向き合えれば、もっと楽に生きられる時代がくるんじゃないかな

今までの地球は3次元の重みの中で生きてきたかもしれないが、
これからの地球は、この軽やかさのフィールドにまで次元を上げてきている
これに適した人でないと、今後はこの新しい形態の地球に生まれるのは難しいかもしれないね

ゆったりとした中で、自分と向き合う時間を大切に、日々過ごしていきたいものです

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思考癖を変えていく ③命に関わる緊張感のある生き方をやめる

病というサインによって、私は生き方を変えてきた
というか、病になる前から変えてきたけれど、結果的にそうなってしまっただけで、だから何?って感じだった

昔は、どこか不死身感の中で生きていたから、まさか自分が病気になるだなんて思ってもみなかった、だから調子が悪いと分かったときは、それはそれは焦ったよ

え、こんなことがあるんだ!?くらいの衝撃があって
だからこそ、そこから私って何なんだろうと本気で向き合いだせた

病のおかげだったけれど、そこから先は自分で何とかするしかなかったから、もうすごい集中力だったよね、特に命がかかっていると、すごい緊張感も入ってくるし

けれど、今考えると一番の薬になったのは、生きることに対する執着でここまで内側からエネルギーが出てくるんだ、ということ

内側からでる積極的な生への執着・・・あれには正直自分でも驚いた

こんな生き方していたら、早死にするだろうなぁと思っていたから死はある意味覚悟できていたと思っていたのに、いざ死を目の前にしたらビビっちゃって笑
自分を改善させるためにすごいエネルギーが動いていたよ

でも、それすらどこか楽しんでやってた
緊張感を通り越して、楽しんでやってたわ
生きている実感の中で、生きていた
どんな状態でも、自分のやりたいことやっているわけだし
病になろうが、それまでよりも自分らしいっちゃ、らしかった
それがまた、内側からのエネルギーに直結していて、自分軸が整っていたよね

病ってね、自分ごとで、他者が入らないじゃない?自分が常に主人公で、主導権を握ってどうするか選択できる、体感する、それが至極、心地よくて
ちょっとマゾ的に感じられるかもしれないが、私にとって、自分を生きずに他者を生きることほど苦しいことはない

自分を生きている時が一番輝いているんだよね~
人に合わせたり、真似したり、従ったり、そういうことをしていても楽しくない、という
私の性格上の問題もあるだろうけれど、
子どものままの自分の部分を認め、満たしてやると、すごい楽しかったりするの

そんなことをしていたら、病なんてどうでもよくなって治っちゃうのよ

人生、自分が主人公で生きれば、病なんかなくなるよ~!

思考癖を変えるというか、緊張感というストレスのスパイスは、たまにはいいよという話になってしまった

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思考癖を変えていく ②餓鬼に施しを?

宗教の言葉は難しすぎて、私はどうもうまく扱えない

そのうちの一つが、餓鬼に施しを、という言葉だ

もともと仏教由来で、以前坐禅に通っているときに食事前に米粒数粒を食事前に回収する習慣があったことで知ったが、生まれが四国なだけあって、供養の一種であるから生活の中に当たり前のように溶け込んでいた

自分に余裕がなくても人にエネルギーを与えるのを無意識でやってしまい、疲れているのにもかかわらず、人に遠慮したりするので内面で怒りが溜まり、それで身体を壊した
ああ、自分は餓鬼に施しすらできないのかと、不毛な努力の末にバーンアウトし、負のスパイラルの中で彷徨うこともあった
お金がないという人にお金を上げることもしばしば…自己犠牲が過ぎ、いつでも他者を優先する生き方しかできないと、本気で死が早まるようで

そんなことは仏教で何も言われなかったなぁ
宗教の言葉通りに生きても、なんだかうまくいかないばかりか、窮屈すぎてウケる
他力本願や自力本願で悩まされたし、もうわたしは宗教と波長が合ってなさすぎる笑

だいたい、餓鬼は人間でないから施しが必要であってね
人に施しだなんて、それはとてもおこがましいことだよ
人を餓鬼扱いしているだなんて、失礼にもほどがある
他者にそんなことする必要ないんだよ

私にとって、餓鬼の世界は存在しないようだ・・・
上も下も同じなのに、現世でやってうまくいかないのなら、もうその考え方いらなくない?

信仰心がないわけではなく、律儀にやってもうまくいかないのだ
アクセスバーズで不要認定されたのなら、もう気にしすぎなくていいんだろうなぁ

案外、気にしないほうがすべてうまくいったりして笑

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思考癖を変えていく ①成長のために闇が必要という考え方を改める

ゼロポイントにマインドを戻すと、光とか闇とかどうでもよくなる

学びのために何が必要かは、存在によって異なるし、体験したい内容によっては闇も必要となる場合もある

それは良い悪いの話ではなく、そういうものである

いつからこの陰陽によるバランスを恐れたり、不安になったりと、ネガティブな周波数をくっつけるようになったのだろうか??改めて考えるとおかしいよね

おかしいことに、気づいてほしい

周波数を操作できる者たちが、不安や恐怖をあおり、重苦しさへと悪用し誘導しているのは間違いなく、それは魂の学びとは何も関係がない世界なのだ

その中にどっぷりと浸かっていないかい?

これに巻き込まれると、本来の魂のやりたいこととは全く別の方向へ行ってしまうよ
いわゆる洗脳、コントロール、支配だね

確かに、長い間そういうことを人間はやり続けてきたが、もうその存在たちはいなくなった
だから、今もし洗脳されていると感じたら、それはあなたの勘違いであり、思考がおかしくなっている可能性があるということ

いわゆる後遺症というか、認知療法が必要な状態で、正常ではない状態なんだよ

もう、自由に無限の可能性の中で楽しんでいい時代がきているんだ
だから、今の時代は、魂が解放され、満たされ、喜びの中へと溶け込んでいくような明るいものだよ

努力と忍耐ではなく、褒めて延び、感動して成長する、そんな世界でいいんだよ
それができて、当たり前だと思ってほしい

もしそうでなくても、凹まなくていいよ
気づいたときが全ての始まりだから

 

そう思うと、闇に匹敵する光とは、何なのか
光と闇は本来ひとつのもの、その光の本質とは何か、見てみるといいね

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