すべてと直接つながる
そのものとなり、表現する
それが、ハイヤーセルフとしての自分を生きるということ
ジーニーのように願いを叶える
そうして無限の可能性の中を生きていく
全部自分だから
何も恐れないで
すべてと直接つながる
そのものとなり、表現する
それが、ハイヤーセルフとしての自分を生きるということ
ジーニーのように願いを叶える
そうして無限の可能性の中を生きていく
全部自分だから
何も恐れないで
7月上旬 高野山付近 家族旅行
10月中旬 奈良県 独り旅
12月上旬 山口県 父とドライブ
夏ごろからこのような流れで旅行することが多いのだが、なぜそこに行ったか分からず、気づいたら流れでそこにいた。内二つは、当日いきなり行くことになって訪問していて、何の準備もなく滞在している。これらに共通しているのは、安倍総理だった?!
奈良県に宿泊した場所は7月上旬に安倍総理が暗殺された隣駅だし、山口県は安倍総理の故郷。私はそんなに安倍総理のファンではないのだが。そして今日、調べていて山口県の長門という地名でふと気づく。ああ、これは卑弥呼という巫女に呼ばれているのだと気づいた。しかし、これが私の中の闘いに関する怒りがふつふつと沸き上がるきっかけとなってしまうのだった。この時私は、鬼として扱われた記憶がよみがえっていた。勘弁してほしい。そして、意地でも戦わない宣言をして、丁重におかえりいただいた。こういう時、真なる愛と、平和と、調和を志に掲げていることが助けとなってくれる。
多分、言いたかったのはそういうことじゃないんだと思うんだよね。安倍総理と卑弥呼は、どちらも国の統治者。個人的な負の周波数など、さっさと浄化しないといけないのは分かっているのだが。しかし・・・まだ自分の中に戦いの周波数が残っていたとは驚きだ。戦いの周波数は数年前にがっつり外した。それ以来、争いごとに同調、共感、興味すら起きなくなったのだが、ここにきて久々に怒りを感じた。さすが、冬至前だ。でも、外して、始末をつけるために炙り出されたものなので、出てきてくれてありがとうといいたい。しっかり外し、すっきりした。
昔々、今の日本の領土に多くの大陸から侵略者が流れてきて、先住民の多くが迫害されたり追いやられたりした。一部の民族はそれに従ってフォローし始めるが、他の一部の民族は戦うことを選んだ。その民族は最強で、新たな世の統治が始まると、鬼として忌み嫌われるようになった。このような話はどの国でも存在している。物質世界だけでなくアストラル界でも存在し、神々の次元でも存在し、宇宙にも存在している。
上あるがごとく、下もかくありき。大多数が繰り返してきた想念。私ももれなくその周波数を楽しんできた。どの次元にも存在するストーリーで、上昇してもなくならない。それが楽しければ楽しんでいいし、嫌なら介入しなければいい。すべてあっていい。選ぶのはあなただから。一番ダメなのは、戦いを非難すること。みんな好きでやってるので、ロックだねー。と流せばいい。いいも悪いもないのだから。あんたも好きねぇ、って。ロックンロールは、あっていいのよ。
私の課題は、そのロックンロールを非難するのではなく、あっていいのだと受け入れることと、参戦しないこと。一見矛盾しているが、その矛盾の先にしか答えはない。武田という名字の武は、矛を止める、戦いをやめるという意味がある。ピッタリすぎる名前に驚くばかりである。
私ほど戦うことが身近に感じられない人でも、争いというのは無意識にやっているものだ。ワク〇ンを打った方はもれなくウイルスと戦っている。防御しないと、と思う時点で相手が攻撃してくる前提の意識がある。コロ〇が始まる前に戦いの周波数を外し終えていた私は、ああ、絶対このウイルスと戦ってはいけないなと直感で思った。それまで自然治癒力や免疫を上げることを中心にしていたから余計にリラックスして、心地よい環境で、愛を感じていることに専念した。周波数というものは現実世界にありとあらゆる手を使って関与してくるから、周波数を外すことは、遠回りのようで、最短距離を通過する行為でもある。
戦いの周波数を持っていなくても関わってくる人もいる。日本人はお祭りが好きだから、楽しそうなら、ついわたしも!といって参戦してくる。そして、多数決による同調により簡単に呑まれゆく。(後日:はっ!私は実はそうだったのかもしれない・・・戦いを外すために生まれたのではないかも。カルマが解かれる瞬間!)阿波踊りがそうじゃない?同じ阿呆なら踊らなソンソン♬というやつですよ。コロ○で400年以上続いた阿波踊りが一瞬途切れたが、その時に思った。ああ、時代が切り替わるな、と。数百年続く伝統文化を中断する勇気のある者はいないだろうし、何より、この世という演劇舞台が一時中断しているのだから、これはもう高次のサインでしかないでしょう。ちなみにコロ〇はクラウン、冠と訳し、高次のテコ入れと言われている。
同調、感情の揺さぶりによる共感、エネルギーコードの繋がりによる意識介入。それらはいわゆる洗脳、コントロールと呼ばれ、支配構造の一つだが、支えて、心配ると捉えるとまた、イメージが反転する。幼稚な魂の私たちが、よちよち歩きで補助が必要だったので、そうしてくれていただけだと言ったら、害がないだろうか。外側のせいにする時代は終わり、己の世界観を構築する時代がやってきたと言われて、準備の進捗具合を確認する。
学びのためにいろんなカルマに関するものを見て、学んで、外して、統合して。ずいぶんと遠くまで来た。物心ついた頃からだと、ずいぶんとやってきたな。もう、本当によくやってきたよ。望めば望んだだけ、果てしなく続く。その繰り返しですら螺旋状に見える。走馬灯のように、その途中で出会った魂の存在たちが愛おしくて光となってよぎる。それすらも自分だった。それらの中身がわからずとも、自動再生で螺旋状に昇華していく。そして思う。何一つ、無駄なことはなく、全てが愛であり、学びであったと。だから、ネガティブと思われることすらも大事な経験であり、宝なのだと。
人としての人生を終え、新たに銀河生命が始まるのか。薄々わかっているんだと思う。これからまるっきり違う人生が始まるのだと。それは今までに経験したことのない世界。真実の愛や感謝、調和の中で、心を解放して生きられる世界。それだけは確かだ。そう思うとなんだかワクワクしてきた。
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卑弥呼、安倍総理、この流れをもたらした者へ
そして、断っておきますが、私は韓国にあまり興味がありません。映画も、韓流スターも。統一教会なども同じく、なんの周波数も感じないので、それは私の担当ではないのだと思います。これ以上は、何も発展しません。私は、敬意をもって、丁重にお断りいたします。どうぞ、本来の場所へお戻りくださいませ。よろしくお願い申し上げます。
以降、霊的に介入することをお断りします。すべての誓約、宣言、契約を破棄します。
数年前に手作り味噌のおいしさを知り、それから毎年作るようになりました。今年で3年目です。材料は気になった豆を仕入れ、生麹は決まったお店で注文しています。スーパーに売っていない原材料で作ると、食べるのが楽しくなります。
黒大豆と麦麹、玄米麹の組み合わせは、食べる味噌みたいな感じになり、他の味噌とブレンドして味噌汁にするか、火を通さずそのまま食べることが多いです。味噌汁用はやはり白大豆と米麹が使いやすいですね。
味噌はやっぱり生きているんですよね。見た目がどんどん変わっていくのですが、真っ黒になっても冷蔵庫に入れません。常温で3年熟成した頃が波動が上がるといううわさを聞いて、2020年に作ったものは食べずに一つ置いています。かなり真っ黒です。(右の画像の真ん中、黒豆で作っているから余計に黒い)カビは生えていないので順調のようです。ひさびさに今日食べてみると、想像以上に旨味が熟成されていました。今で2年目です。あと1年経ったらどうなるんだろう。その美味しさを想像できません。
こういうのは子供たちと作ると楽しいですよね。美味しくなぁれ~♬と言いながら作るのが好きですし、幸せな気持ちになります。食べるものって、愛情込めて作れば不思議と美味しくできるんですよね。作った人の想いやエネルギーがちゃんと伝わって、美味しくなる。祝詞や祈りもいいですが、やっぱり母親が子供の成長を願うというのが個人的には最強な気がします。記憶に残りますしね。
こうして発酵ものを育成していると、ああ、彼らも生きているんだなということを実感します。菌の種類や比率、発酵や分解の様子も、彼らのありのまま。彼らには想念や思念がないから、それらを見ていると宇宙的なものを感じる。自然そのものなんですね。そしてこの菌たちをいただいていて。そういうわたしもまた、自然体の一部で。過もなく不可もなく。そうやってわたしは、彼らの営みの仲間に入れてもらっているんだなぁ。
人ができることは、彼らが生息する環境を整えることだけなんです。塩加減、材料選び、空気の入れ替え、感謝や願いなどの言霊、祈り、意図。あとは、見守るだけ。そう、人って本来、これをする役割なんだよ。地球に存在するいのちは人だけじゃないから。でも、いのちを食べないと人は生きていけない。だから感謝していただくんだね。生きているいのちをいただいて、今日も身体が健康であることに、心から感謝です。ありがとうございます。
見終わっての感想。
ハイヤーハートがとにかく痛い。震災に見舞われた方々への想いがリアルに溢れ、それが静まるのに時間がかかっている。心にとにかく寄り添い続け、大丈夫だという言葉をひたすら唱える。細胞中が追体験を再生し始めているので、落ち着くまでただ観察する。止めずに、感じきる。
この感覚は…。果てしなくとりとめがなく、不安な感じ。そうか、震災前後に私が感じていたこの感覚は、みんな感じていたことなんだ。わたしは東京にいたから震災に直接巻き込まれたわけではないけれど、意識が奈落の底に落ち、再起不能になっていた。わたしは自分の心を癒すだけで精いっぱいで、被災地へのボランティア等に携わるだなんて無理だった。普通に仕事をしていただけなのに、突然深い闇に襲われ、息ができないほど意識が落ちたことがあまりにショックで。あの頃から、自分ではない見えない存在の意識が繋がり始めた。関東圏で福島原発崩壊による放射線を浴びたことも何か関係しているに違いなかった。それまでカルマやブロック解除など気にも留めなかったもの。
結果的に、あの年を境に多くの人が潜在意識へと足を踏み入れたのではなかろうか。拡大した意識で日々キャッチする周囲の環境や他者を含む己の想念を、どうにかポジティブな方向へと向かうように日々努力してきた人は私だけではないはず。愛や調和、平和、癒しの方向に舵を切り直し、生き方を変えてきた。そして、ようやくその成果が見え始めたのだと思う。よく頑張ったね、と自分を、皆を褒めてあげたい。この十数年間で私は何をしてきたのか、ここにきてその答えに気づく。最悪の中に、最善最高を見出すことができている今で、本当によかった。
震災の時被災地にいた人は、この映画を見れるのだろうか。それくらい強烈なエネルギーを放っている。「君の名は。」や、「天気の子」はこの映画のための伏線で、人の心や感情を揺さぶり、”共感”を呼び寄せることで、人間として風化させてはならない”今を生きることの大切さ”を、監督はこれでもかとアプローチしてくる。これだけの想いを伝えてくる製作アニメは本当に珍しいんじゃないだろうか。時空の制限がなくなる、宇宙意識で生きる時代の到来の先駆けのようにみえる。
原発の問題は、それが人の意識にもたらす悪影響という視点から、稼働しないでほしいに1票入れたい。人が人として生きづらくなる世界など、わたしは見たいと思わない。日本はもう十分なほどに稼働したし、運用してきた。それがカルマの刈り取りと言われるなら、もう十分に刈り取ったはずだ。十分すぎるほどだよ。原発だけじゃない。コロナもそうだけど、もういいんじゃないかな。
その決意ができた人から別世界の創造が始まる。過去のすべてを手放す勇気を。新たな明日へと向かって進む覚悟を。豊かさや愛を分かち合う世界の創造をスタートさせる決意を。この日本でやるから意味がある。世界のあらゆる闇を含んだこの日本で。だから、この国が変われば、世界が変わる。
恥を最後に経験したのはいつだろうか。自分が選択したことが間違っていた時、病気になったとき、失敗したとき、挫折したとき。思いのほか、たくさんある。私の場合、周囲ではなく、自分との繋がりが断たれ自己不信に陥ったときに思いっきり恥を経験をしている。一方、他者との繋がりの中でも最近恥を経験した。多極化している現在で、同じ方向を進んでいると思っていた団体とかみ合わなくなり、はじかれたときのこと。未だ和解していない。
プライドをいかに捨てるか。それを知るための恥をかくという経験だったようだが、そのことが長い間理解できなかった。周りとの相違で何かショックを受けたなら、何が間違っていたのかを自問自答し、内省し続けていた。でも、なかなか答えが見つからなかった。それもそのはず。弱い自分を認めるだけでよかった。
人はみな創造主で主体性を持って生きていると知ってから、責任感からちゃんと正しいことをしないと、という感覚でがんじがらめになっていた。だって、独りよがりの創造主ほど滑稽なものはなく、下手したら北朝鮮のようになってしまう。それは嫌だもの。それを防ぐための善と智のラインであり、これまでの学びのはずなのだ。これが世界地図として、縦も横も、ズレることなく100の位置に一致していればうまくいくだろうと。でもそれって、すごい緊張感だし、時の支配者の発想だよね。独裁的な。これ以外は認めません、みたいな。そりゃあ、肩の力が抜けないはずだ。弱さを認めるだけでOK~♩という世界ではないのは間違いない。そんな世界を創造したいの??いやいや。
独りよがりのフェーズは既に終えていて、調和を保つにはどうしたらよいのかに焦点が当たっている。恥の度合いをそのままプライドの塊の大きさと捉えて外して、もっとラク~♬を現象化していきたい。これでいいのだ~。すでに全部あって完璧なのだ~。
過去の古い地球の反面教師をやめないとなぁ。未来の新しい地球に繋がらないよ。本当は過去の経験全部捨てちゃっていいのかも。特に、このプライドという周波数はかなり凝り固まった鉄の塊と化している。手放して、全く新しいものが入ってきますように。