ドーパミンと巫女とシャーマンと統合失調症

精神病、シャーマン、巫女、憑依。これらに共通するのは、過剰なドーパミンという神経伝達物質の放出。いわゆる依存症。やめられない、止まらない、抜けられない。その状況に浸り続けると統合失調症が起きたり、神がかったりする。

ドーパミン中毒は、何も快楽だけでおこるわけではない。極限の苦しみでも起こりえる。ドーパミンをつかさどる器官は、快楽か、苦しみかを判断しない。ネガティブ、ポジティブどちらに偏っても同じように中毒になりえるということだ。最近、ジャズシンガーのビリー・ホリデーのドキュメンタリ―を見たが、彼女の壮絶な人生はまさにジェットコースターのようだった。苦しみと同量の快楽の世界に浸っていた。戦争を経験された方々も同じように極限の苦しみを経験しているが、多くの日本人の場合、周りとの調和を乱し狂うことよりも自首を選ばれる方が多いような気がする。

人の脳の処理可能な範囲というのはある程度決まっていて、その限度を超えた経験というものは、人はしないほうがいいのではないかと思われるが、誰もしたくて、そんな経験をしているわけではない。人類の意識進化の方向性として極限という限界を超えていく必要があると言われても、誰が好き好んでその道を行くだろうか。しかし、その経験は決して無駄なことではなく、むしろ栄光への扉であることを理解できれば、精神病で薬漬けになっている人たちを別の形で救うことができる。そのための情報が、この社会にはあまりにも少なすぎる。何者かによって、敢えて閉ざされているようにも思える。ちなみに、救うというのは自助救済のことで、誰かが救世主となって救ってくれるという流れではなく、自らが自らを救うことで開けることを言う。これも今の時代の特徴かもしれない。どちらにしても、肉体を持っている間に経験することは特に重要。なぜなら、それくらいの壮絶な体験は過去世が影響していることが多く、それを今世で刈り取りに来た可能性があるから。人はそれほど神秘的で無駄がなく、神がかっている存在なのだ。

ある程度の苦しみを超えた先にしか、その先の意識へ到達できないと言い張るシャーマンたちを見ていて、すごい世界観だなといつも思う。顕在意識の自由意志でこのルートを選ばれる人は、間違いなくドMだ。ある程度耐性があり、これが必然で起こっているのだと信頼して受け入れることができなければ、心や精神が耐えられない。だから彼らは神々に絶対的信頼を置き、起こる事のすべてを受け入れることができるのだと思う。それは、自分との信頼に直結する。宗教観を超えた、自己との対話である。内なる神。結局そこに行きつく。

現代は各自度合いは様々だが、一般人も少なからずショックを受けるような体験をしやすいフェーズにいる。インドの聖人でなくても悟りを開いたり覚醒する時代になっているのは確かだ。発達障害、精神疾患、パーソナリティ障害、統合失調症、そういった症状を持つ人が増えているのも理由があって、その扱い方や方向性を間違わなければ、正常な方向で抜ける可能性だってあるということを知っていて損はない。ヘーゲルの弁証法のように、そこで対立するのではなく矛盾を超えて新たな見地に向かう。それが、意識の進化の方向性で、人類皆が個人単位でそれを問われ始めている。

少なくとも私は、一時期統合失調症と同じような症状が出ていて焦り、シャーマンとの違いを感覚で調べていた。自分の魂と一致していない部分があり、それが原因だということがわかり意図して方向性を変えたら、その症状はなくなった。もちろん薬を処方することはなく、これと言って対処したわけではなく、意志を明確にしただけだ。結局、自分の意識が全てを体験させているので、魂と一致した選択をしていくことがどれだけ大切なことなのかを、この一件で思い知ったのである。

これまでの古い地球と明らかに異なるのは、沼からの立ち直りや闇から光への反転が超特急で行われるという点にある。向き合ったら向き合っただけ抜けられる。そのためのサポートが宇宙中から大量に流し込まれ、光が強く、守護されているのだ。マリオがスターを取ったときのように、最強な状態になっている。太陽フレアもその一片をサポートしている。だから、安心してほしい。修行を終えた阿闍梨じゃなくても大丈夫なように、サポートは入っているから。

しかし・・・すごい時代だね。

安心してほしい。これを望まない人には、望まない地球という側面がきちんと用意されていて、無理に覚醒させようとは決してしないから、不安にならないでほしい。宇宙は慈悲深く、そして愛で見守るために、いつでも望んだことが叶うようになっているからね。みんな違って、みんないいというのは、皆が自分が望んだルートが必ず存在するということでもある。そう、まさにパラレルワールド。自分に向き合って、自分はどうしたいのかを見つめることほど、大事なことはないです。一人一人が、己の主導権を握っているからね。みんなが主権者であり、みんながリスペクトされる存在だから。

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フェイント

「あなたの剣さばきは、まっすぐすぎるから、勝てないんだよ」

高校生の頃にフェンシングをしていてわかった、自分の性格。私はフェイントというものが超苦手で、嘘つけないのがそのまま剣先に現れていて、勝てない理由によくこのことを言われていた。3年間、フェイントに苦手意識を持っていた私は、最後の試合で負けたときに心に決めたことがあった。それが、人生に壮大なフェイントをかけてやる、ということだった。その裏には、素直なまっすぐな剣で何が悪いのだ、という感覚と、フェイクや嘘にあふれた社会に対して、壮大なフェイントをかけてひっくり返したいという思いが渦巻いていて、それがその後の人生の動機となっていたように思う。多感な時期に武芸をやっていると、人生ずっと、フェンシングをしているかのような感覚になる。あの頃から自分は何も変わっていないのかもしれない。

フェイント、フェイクって、世間一般ではあまりいい意味でとらえられないかもしれない。なんだよ、フェイクかよ!って、騙された気分になるから。でも、そういったフェイクのフェイクをかければ、正常な元のルートに戻るのではないかと、直感で感じていて。正義は勝つわけではないけれど、魂が望むルートというものは確かに存在していて、そこに沿う生き方を選択することは、一応答えとして用意されているように思う。

私はこの人生にかけた壮大なフェイクを、やめたいんです。それはつまり、魂の青写真に沿った生き方をするということ。それ以外はすべてフェイクで、本来の望む生き方ではない。フェイクでしたぁ!と、何度も軌道修正することはできるが、正直切ないものがある。早く本筋に帰りたい。

そうなの、私はフェイントが苦手なのではなくて、人生そのものがフェイクだった!そんなオチがあるだろうか…。これも人生、人生とはこういうものだ、みんなそうだ、安心せよと、何の慰めにもならない声が頭をよぎる。ここまで気づいたらもう、愛や光、調和の中で生きる以外に考えられなくなる。玉ねぎの皮が向かれるように、どんどん覚醒していく経緯は本当に秀逸で、私用にアレンジされたストーリーの中で、着実に進んでいる。本当に、見事としか言いようがない。人間って、神秘的で、すごいよね。本当に感心する。。

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ステージアップ

自分以外の世界観をリスペクトしているのに、なぜか自分色に染まっていく。これはいったいどういうことなのか。私のただの認知の歪みであれば納得するが、どうもそうではないらしい。スピリチュアルや精神世界における一部の無秩序の世界観が危険すぎて、私はそこから境界を引くようになったのだが、同業界で新たに関わる人たちが、私の頭の中と同じような行動や施術をし始めるということが圧倒的に多い。これまではそうではなかったのに。わたしのせい?また意識が浸潤している??

ここで恐れをなして逃げるか、ありのままでいるかが問われる。

何かしらに影響を与えられる人になりたいなら、もっと成長したいなら、社会に対してある程度の責任を負うことも必要。自分の理想や望む世界観を創造したいなら、それに同意する人たちを増やし、共に同じ方向を見てくれる仲間を集め、分かち合いながら進んでいくためのリーダーシップが問われる。和をもって尊しと成しながらも、常に主導権を握る。魂は、実は、こういうのをやってみたいと思っているのではないか。

もし仮に、自分の意識の浸潤が社会の毒だというなら、私は山に森にこもって人里離れて暮らしたっていい。だって、人間界を荒らしたくて生きているわけではなくて、真なる幸せや喜び、調和を分かちあう世界を望んでいて、それに必要な行為と言われるなら、喜んでそうする。地球全体の平和は、そのまま自分自身の内なる世界の平和に直結するから、平和であることは私の中でもプライオリティが高い。いのちの躍動感はすべてと繋がっているから、自分がそこに存在していなくていいんだもの。いつもそんな感覚でいる。

と、いいわけしてみたが、ようは、体験したいんだよね。そのための、I AMであり、光であり、愛であるから。自分のステージがステップアップしたのだということを、素直に認めたい。

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自己表現

先月からブログを始めたのだが、こうやって書き留めていくと、自分ってこうなんだと客観的に見えてきて、すごい恥ずかしい。なんかもっと、キラキラしていたいのにそうならないし笑、書いている文章や考えていることもものすごく偏っているし、まともに生活している記事がほとんどないし。私の頭の思考形態はいったいどうなっているのだろうかと思う。ずっと覚醒の事ばかり考えていて、娯楽やファッションのこと、友達の事、おいしい料理の事、そういったことが全然出てこないことに自分で衝撃を受けている。喜んだり嬉しかったり感動しないわけではないよ。感動や深い愛を感じているのが、4次元以上だからずれているのかもしれない。まあ、いいってことにしておく。

美しいもの、きれいなもの、光、色彩、音。そういった華やかな光と調和の世界観が嫌いなわけではなく、そういう世界で仲間たちとワイワイ楽しくやってるイメージが必ず出てくる。一人ではなくて、いつも友人がいて、一緒になんかやっている。現実では一人でも、意識内では大勢と繋がっている。見えない存在たちと繋がっていると寂しいと思わないよ。そこで何やっているかというと、感謝と敬意をもって他者と接していて、優しくしたり、心に寄り添ったりできることが嬉しくて。恩返しとか、サポートとか。そういうことが日常的に起きていたりする。意識内で。そこにお金という対価交換もないし、情熱をもって直接的にサポートできるのが喜びだったりする。

学生の頃、教室の中に決まった生徒がいたように、見えない存在もそんな感じ。そこにいるんだもん。それがいいとか悪いとかではなくて、そこに存在している。ルームシェアで共に時間を共有している感覚に似ている。例えばそこで花火があって、一緒に感動する。そんな感じかな。きれいだねー、とか、楽しかったね!と、一緒にいるのが当たり前のような感覚。だからってどうもしないんだけど。不思議。

たまに自分は既に死んでいるのではないかと思うときがある。いや、全然笑えないんだけど。物質次元に肉体があるのに臨場感を別次元で感じていると、リアルって何だろうって思うよ。あ、勘違いしないでいただきたいのは、別に過酷な環境に身を置いて逃避しておかしくなった、とかではないからね。平和に日々暮らしていますよ。ちゃんと美味しいもの食べて、肉体をほぐしたりリラックスして、この世を満喫しながらですよ。肉体をもってアセンションする時代だとよく聞くけれど、それはこういう感覚なのだろうか。私の感覚では、たとえ肉体を脱いでも魂は何も変わらずそのまま。特に聖人になるわけでもなく。わたしはわたしのまま。だから、肉体がある間にこういった経験ができるのはとても貴重なことだと感じています。

ありのままの自分を受け入れる。恐れることなく、寄り添って、共にいる。決して放置しない。どんな自分もOK出してあげたら、内側のジャッジメントや不要な争いが静まり、穏やかでいられるようになるよ。心が落ち着かないときは、是非そうしてあげてください。

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4方位

東・西・南・北、春・夏・秋・冬、青龍・白虎・玄武・朱雀、和魂・幸魂・荒魂・奇魂、大天使ガブリエル・大天使ラファエル・大天使ミカエル・大天使ウリエル。一霊四魂。これらの共通点は、4つがそろって初めて統合される、ニュートラルになる、ダアトが開かれる、内なる宇宙への扉が開く。

わかるように申すならば、宇宙は﹅真と愛との現われであるぞ。愛と真ではない。﹅、愛、真、善、智であるが、愛真でもなく、善智でもないぞ。愛と真が善と智の現われ、喜びとなってはたらき、﹅が加わって弥栄えた生命であるぞ。愛のみというものないぞ、真のみというものないぞ。愛と現われ真と現われるのであるぞ。
(日月神示 第25巻 白銀の巻 第2帖(613)より)

IT業界で働いていた頃、知に偏りすぎて若干人間性を失っていた。高次の叡智に近づけば近づくほど、人間的な良い悪いの二元が外れ、俯瞰していくので智と善は対極であることを体感で学んだ。愛と真は、リーダーシップと和に置き換えると分かりやすい。俺が引っ張っていくぜ!というタイプとみんなで一緒に行こうよ、という方向性が対極にあたり、それを真と愛と捉えられる。この4つがニュートラルにバランスされ中庸に至る時、本来の魂の在り方に一致し、﹅となり、セフィロトでいうダアトの門が開かれる。この位置をキープすると己の宇宙にアクセスできる。どの宗教も同じことを表していることがわかる。しばらくは人間の進化の道しるべとしてこれをバイブルにして生きてみようと思う。

細胞同期で体感に落とし込んだとき、本当の創造が始まるのかもしれない。振り返らずに進んでいけるように、方向性や志をしっかり携えておきたい。ちなみに、私の記事は感覚で書いているだけで、科学的な証明でも、スピリチュアルな洞察でもなんでもない、直感と体感で腑に落ちたことだけを述べている。自らの肉体をもって両極端に生きるという弁証法を使って実験を重ねて得た内なる叡智を元に書いているだけなので、その点注意いただきたい。

真なる喜びや幸せの中で、かけがえのない命たちと大調和した世界で感謝の中ですごせますように。

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